蝸牛庵日々録

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help リーダーに追加 RSS 島崎藤村『破戒』

<<   作成日時 : 2009/01/06 14:19   >>

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 1962年に市川崑監督により映画化された『破戒』を観て、早速原作を手にしてみた。
しかし少々面映ゆい。今更藤村、破戒か。しかしどうしたわけか小林多喜二の『蟹工船』が流行っている時勢。これもありか。
部落問題とか部落解放などという忘れていた負の歴史、負の現実を今更思い起こしていた。アイヌ以外に差別的な土壌を持たない者であり、学生時代名古屋に生活し全国から集まった学友のなかに多少ながら、それまで触れたことのない「差別」の臭いを感じ取っていたぐらいだった。しかしそれもオブラートに包まれ、その当時において既に時代感覚から薄れたものとしてであったと思う。それだけ特殊な臭いのするテーマであった。

 作者島崎藤村は1899年(明治32年)、小諸義塾の教師として長野県小諸町に赴任し、以後6年過ごす(小諸時代)。秦冬と結婚し、翌年には長女・みどりが生れた。この頃から現実問題に対する関心が高まったため、散文へと創作法を転回する。小諸を中心とした千曲川一帯をみごとに描写した写生文「千曲川のスケッチ」を書き、「情人と別るるがごとく」詩との決別を図った。1905年(明治38年)、小諸義塾を辞し上京、翌年「緑陰叢書」第1編として『破戒』を自費出版。すぐに売り切れ、文壇からは本格的な自然主義小説として絶賛された。

 明治後期、被差別部落に生まれた主人公・瀬川丑松は、その生い立ちと身分を隠して生きよ、と父より戒めを受けて育った。その戒めを頑なに守り成人し、小学校教員となった丑松であったが、同じく被差別部落に生まれた解放運動家、猪子蓮太郎をひた隠しに慕うようになる。丑松は、猪子にならば自らの出生を打ち明けたいと思い、口まで出掛かかることもあるが、その思いは揺れ、日々は過ぎる。やがて学校で丑松が被差別部落出身であるとの噂が流れ、更に猪子が壮絶な死を遂げる。

その衝撃の激しさによってか、同僚などの猜疑によってか、丑松は追い詰められ、遂に父の戒めを破りその素性を打ち明けてしまう。そして丑松はアメリカのテキサスへと旅立ってゆく。

 近代穢多・非民という差別された階層に生きる人々が、世間から隔絶された土地で世間からは卑しい職業を営んで口に糊する生活をしていた。
しかし中世彼等は自由民として、年貢などの課税から免れ、諸芸を売って自由に諸国を行き来していた公界・無縁の民、その多くは傀儡子といった。 また神人・供御人といって古代においては、天皇・朝廷に海水産物を中心とした御食料(穀類以外の副食物)を贄(にえ)として貢ぐ慣習があり、律令制のもとにおいても租庸調などの税とは別に、贄の納付が定められていたと考えられている。

これらを貢納する贄人を初めとする非農業民は、従来「無主」にして「公私共利」の地とされた山野河海の利用により生業をたてていたが、8世紀以降の律令制の解体、荘園公領制の成立とともに、荘園領主による制約を受けるようになってきた。11世紀以降、非農業民は有力寺社などに生産物を貢納することを理由に、これらに隷属する神人となっていたが、後三条天皇親政下において、内廷経済を充実させるべく山野河海に設定されていた御厨を直轄化するという政策がとられると、蔵人所とその下部組織である御厨所の所管となった御厨の住民が供御人と呼ばれるようになった。更に、保元元年(1156年)の「保元新制」において神人・供御人制が確立したと見られている。
彼らは、貢納物の原料採取・作業・交易をする場を求めて移動・遍歴することを必要としていたため、関銭・津料などの交通税を免除され、自由に諸国を往来できる権利を得ることとなった。また、聖なる存在として国役の免除、給免田の付与なども獲得した。

天皇家の御厨は畿内近国に限られており、特権を獲得した供御人やその統括者は渡辺党がその典型であるように西日本における武士の淵源となったとする見解もある。その一方で炭供御人、氷室供御人など様々な手工芸品を扱ったため、貢納物を超える生産物は諸国往来権を持つ彼ら自身により流通経路に載せられ、商人としての活動も行っていたと見られている。

 南北朝時代以降は、貢納品の独占販売権を取得し座と同様の活動を行ったが、その特権の源泉であった天皇家の権威喪失とともに聖性を失い、一部には大商人として成功する者が出た反面、被差別民の起源のひとつともなったとする見解もある。

 やがて戦国時代に入ると、戦国大名らによる大名領国制のもと楽市・楽座などの経済政策が執られ始めると、供御人は急速に減少した。

 江戸幕府以来、諸税の対象にならない彼等を隔離し、世間から差別されるようしむけられ、士農工商の階層の下に卑しめられた階層として位置づけられてきた。
しかし1869年の版籍奉還により武士の身分が廃止されたのを受け、士農工商と呼ばれた身分制度は廃止され一律に平民と呼ばれた。また1871年(明治4年)に明治政府により「穢多非人等ノ稱被廢候條 自今身分職業共平民同様タルヘキ事」との布告(解放令)が出され、以前の身分外身分階層が廃止されたことが明示された。しかし、近代市民社会の産業革命をなしとげた欧米列強に見習う部分が多く、一部の知識階級でのみその必要性が理解されたに過ぎない。

 そのため多くの村々では穢多や非人と同列に扱われるのには反対が強く、解放令発布直後から2年以上にわたって解放令反対一揆が続発した。解放令に反対して部落民を排除する取り決めを行ったり、部落民を「新平民」と呼ぶことにさえ拒否し、旧来どおり「穢多」と呼んだりした。これに対し県レベルの行政では解放令直後に「旧穢多」という言い方が用いられ、後には「新民」「新平民」「新古平民」というのも出てきたが、一方部落民が「新平民」を自称することもあった。
 「あれは穢多だ。」「放逐してしまえ」「不浄だ、不浄だ」と罵詈する声だ。丑松が蓮華寺に遷る切っ掛けとなった下宿での不快な出来事の際のことである。

 解放令によって法的な地位においては身分職業の制限は廃止されたが、精神的・社会的・経済的差別は却って強まった。たとえば新制度における警察官などが武士階級のものとされ、下層警察官僚であった身分外身分の者が疎外されたこと、武士(特に上層の武家階級)が新制度においても特権階級とされたのに対し、武士に直属し権力支配の末端層として機能してきた身分外身分がなんら権限を付与されずに放り出されることによって、それまでの支配の恨みを一身に集めたこと、などが原因と考えられている。

また現代に続く「部落差別」の問題の制度的源流は歴史的なものであるが、具体的な差別構造の成立は明治政府の政策や民衆に根付いた忌避感の表れであるとみる者もいる。

 差別の具体的な形態は、個人においては交際や結婚や就職、集落においてはインフラの整備における公然とした不利益などである。いわゆる被差別部落では貧しさによる物乞いが後を絶たなかった。島崎藤村の「破戒」は、この時代の部落差別を扱っている。

この中世におけるプラスの時代とその後の負の歴史との隔世を埋める知識がまだ僕には不足している。
にもかかわらず差別の構造は支配機構おける常套手段であることは他言を待たない。実際にそこに生きる人々の肌に染みついた生活感覚、部落から外の社会に生きるための「戒め」がいかなる厳しいものであるかは、この小説が語ろうとするものに他ならない。 制度的な「解放」が西洋から輸入した人道的な配慮であったにせよ、一般人心に容易く了解されるべくもなく、根深い差別意識があり、逆に支配層はこれを巧みに利用したであろうことは疑うべくもない。
 猪子蓮太郎との出逢いにより部落民であることを隠さず強く生きるモデルを示され憧れる反面、父から「隠せ」という戒めを受けた彼の相克葛藤を語っている。

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