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マーシャル・マクルーハン『グーテンベルグの銀河系』についての呟き
この著は、松岡正剛の「千夜千冊」と同様の方法で読むことが出来る。
どこから読んでも構わない自由さがある。まさに「銀河系」を彷徨う事が出来るし、星と星を繋ぐ星座の線を目視する自由が与えられている。
何時初めても良い。どこで終わっても構わないのである。読了したからといって、それで終いではない。
辞書のように、必要に応じて「言葉」を探し、図書館のように並べられている背表紙を眺め手にとって看ることが出来るように。
一見して彼の主張には「無理」があるようだ。しかし騙されたと思って読むだけの...
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2012/01/06 09:58 |
ベルハルト・シュリンク『朗読者』
この本との出逢いは全くの偶然であった。
入院生活3ヶ月は無聊を託つこともなく、様々な病気と境遇を担った患者との交流と読書に明け暮れていた。ほぼ毎日の「散歩」は病棟の空気とは違った清涼感があり、森に囲まれた病院の坂を下る時,左側の木立を立ち止まって暫し呆然と木の葉の様子や木に絡まる蔦にみとれていた。病棟の窓からみえる空模様で今日は出られそうか判断し出掛ける身支度の用意をし、大抵同伴者がいたので合図をして病棟を抜け出た。秋のまだ紅葉の時分から雪の始まりまでいた入院生活は充実していた。読書は午前三...
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2012/01/03 14:07 |
『評伝 正岡子規』 柴田宵曲
司馬遼太郎『坂の上の雲』では、文庫本3冊目の冒頭で子規は没しており、あっけなかった。日露戦争の戦記がその後メインをなすことになれば致し方ないのだろうが、もう少し子規の子細について知りたかった気がする。
その点この『評伝』からは、短い彼の半生を細部にわたって読み知るきっかけになる。
子規全集を祖父が持っていたおかげで、柴田氏が引用する記述を源本で確認することができ、源本をあたることで更に新しい発見が得られるということは誠に有り難い。
7年にわたり彼を悩ませた喀血の模様を、「啼血始末」「読...
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2011/12/18 18:32 |
森のなかの病院
病棟を抜け出して朝の散歩に出かける。下り坂になっている舗装道路を降りていくと左脇は林になっていてその木立を眺めているのが好きだった。黄色の銀杏の葉が風に揺れ舞い落ちてくる。朝の空気を吸い込む時の爽快感がよい。暖房のきいた密閉された病棟の空気との格差を楽しむときだ。佇んで木立をただ仰ぎ見ている時間が病院生活から抜け出した隙間を感じて嬉しくなる。雨の日、恨めしそうに窓の外をながめながら喫煙室でタバコを吸いつつため息をつく時もあるが、今日は晴れだとテレビの天気予報が告げて窓の外の空が確かに明るく晴れ上...
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2011/11/13 08:45 |
シッポのある天使 その死(その1)
ハルは四月が誕生日と妻が勝手に決めたのだが、当時小学生だった長男が拾ってきた日が多分四月だったのだろう。それで今年二十歳となる。
拾ってきた犬の不細工な作りに共々笑いを堪えられなかった。体の割に大きすぎる顔、短い手足。耳はピンとたって白い毛並みに悪戯のように背にある一筋の黒い毛並み。子豚を想像する滑稽さに飼うも飼わないもない哀れみともつかない気持ちで家族の一員となった。
妻が何処で聞いたのか、ハルは何度も捨てられ虐待を受けた経験を持っていると。そのせいか人に媚びない愛想のない犬だった。触ら...
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2011/06/05 13:33 |
遺産分け(1)
父の遺産分けの件で千葉まで発つのに私一人で行く、いや二人揃っていくなどの遣り取りが二三日続いた結果、ふと妻が私も行くと言い出した。母以来父の介護までこなしてきた彼女がそれ相当の分け前を正当に受け取る資格があるという口上を謂わんがために出向くのは当然といえば当然なことである。然るに彼女の胸のうちを思い図るに、父母の介護に手を貸すことを躊躇していた私への当てつけとも取れなくはない。或いは父の葬儀の際兄が漏らした妻への感謝の言葉にさへ、今更口先だけの言い訳にしか聞こえなかったことへの復讐の気持ちがあっ...
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2011/05/15 08:17 |
不可能の結合
「この卵のなかに象を埋め込むのと、君の愛をその筺に納めるのとどう違うというのだろう。」
レトリックとはイメージ化に他ならない。しかしイメージは、ものとものの照らし合わせ方や結び合わせ方によって違ってくる。ここにシュールレアリズムの可能性が出現する。
卵と象をその大きさだけで照らし合わせれば、常識的な不可能しかありえない。卵と象を別の本質で結合すれば、卵のなかに象は納まることも可能ではないか。そこを見極めることだ。
上記のレトリックは、不可能を言いたいのではないとしたら、何が言えるのだろうか...
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2011/05/12 14:05 |